伊豆七島に先史時代から人が住みついていたことは、縄文式文化時代の土器・石器・人獣烏骨の化石などの発見と、弥生式土器の出土によって立証され、縄文文化人の中には噴火によって滅亡したものもあったと推測されている。史伝によると、伊豆七島は大国主命の御子事代主命が開いたと言われ(伊豆海島誌、伊豆七島誌)、また、現在の大島(伊豆大島)を伊豆島と呼び(日本書記、続日本紀)国造が置かれたらしい(国造本記)と伝えられている。その後伊豆の国司狩野氏の支配下に、次いで鎌倉幕府直轄地となり、室町末期に至っては小田原北条氏の管下となった。更に、慶長8年(1603年)徳川家康が幕府を江戸に開いてから明治維新に至る(1868年)まで、264年の問幕府直轄下にあった。
日本書記によると、推古天皇24年(616年)屋久島(大隅列島)の住民2名が伊豆の島に漂着したとの記録があり、次いで天武天皇4年(676年)三位麻結王の子、同6年(678年)には村田名倉が伊豆の島に配流されたとあり、また続紀には、文武天皇3年(699年)の役の小角(えんのおつぬ)が配流された記事がある。このように聖武天皇神亀元年(724年)律令で伊豆を流刑の地と定めた以前から、伊豆本国を含め大島(伊豆大島)は流刑地となっていたことがわかる。
保元の乱に敗れた源為朝が大島(伊豆大島)に配流され、他の諸島を攻略して数々の物語りを残しているが、当時伊豆諸島は狩野氏の領地で、その代官が統治して年貢をとりたてていたと伝えられている(大日本史)。
徳川家康の関東入国以来は、伊豆諸島を幕府の天領(直轄地)として代官の治下に置き、8代将軍古宗の時代に制定されたお定書き百ケ条(1742年)によって法定流刑地とすると共に、本土からの船舶の寄港を厳禁して、御用船と島の廻船のみを本土との交通機関にあてた。
大島(伊豆大島)の配流は寛政8年(1796年)に廃止となったが、新島、三宅島、御蔵島は八丈島とともに明治維新まで続いた。幕府は島民の必需晶については御用間屋、後には島方会所を経て給付し、租税としては塩・まき・海産物を貢納させた。また、江戸には勘定奉行のもとに島方会所を設置し(1796年)、各島の移出品のすべてをここに集め、改めて御用商人に入札販売するという専売制度をしいた。寛文2年(1662年)、伊豆大宮伊奈兵右ェ門の時、その手代を大島に常駐させ統治し、利島・神津島の2島は大島手代の直轄とした。更に、新島・三宅島にはその下代を置いた。享保8年(1723年)これを廃し、各島の神主を取締役に任命して、後にこれを地役人と名づけ、以後島務を続括させることになった。
概 要
明治維新の廃瀋置県に伴って、伊豆諸島は明治2年(1869年)韮山県の所管となり、この年5月、3世紀の長きにわたって出島を禁じられていた各島民は、女子と共に自由に本土に行くことができるようになった。同4年8月伊豆七島物産会所が廃止され本土との自由貿易も許されることになり、しだいに諸制度も改革されるようになった。明治4年11月足柄県の新設と共に諸島は同県の所管に移り、翌5月には地役人制に代って戸長・副戸長・島用掛・村用掛の戸長制度が設置された。明治11年東京府の管轄となったが、その間に一度静岡県に移管されている(明治9年)。明治14年6月東京府は各島に島役所を設置し、地役人、名主制を復活し、年寄りに至るまでその選挙方法、俸給、島費の徴収、支出等を規定し、同時に七島官制の大改革を機会に、一般行政に関し各島の組織運営等に至るまで詳細に布達した。同33年8月に島役所は廃止され、大島(伊豆大島)にのみ島庁が設置され地役人に代り島司が置かれた。
島しょ町村制が施行され、名主が村長と改められたのは、大島(伊豆大島)各村が明治41年、利島・新島・神津島の各村は大正12年である。大正9年に利島・新島・式根島・神津島・三宅島・御蔵島の6島が大島(伊豆大島)島庁の所管となり、新島・三宅島には大島(伊豆大島)島庁出張所が設けられた。その後大正15年には郡役所の廃止と共に島庁も廃止され、かわって東京府大島(伊豆大島)支庁が設置された。昭和15年4月、初めて各島に普通町村制が施行され同時に府県制の適用をうけることになり、同18年4月には三宅支庁が設置されて三宅島・御蔵島はその管轄となり、続いて同年12月に新島出張所が廃止となった。
終戦後昭和21年1月29日連合国最高司令部からの覚書により、大島(伊豆大島)・三宅・八丈及び小笠原各支庁管内の島しょは、日本本土との間に行政分離を命ぜられた。この命令は同年3月22日解除されたが、その間、日本政府の行政機関の存続が認められたため特記するような混乱はなかった。昭和29年10月新島本村に若郷が合併し、平成4年4月1日には村名変更により、新島本村の名称を新島村に改めた。大島(伊豆大島)では、昭和30年4月に6ケ村が合併して大島町が発足し、新島村の2島1村の外は1島1町・村が実現し現在に至っている。
東京都大島支庁管内概要より